やろうと思えばできることと、やることは違う

ブログなんて毎日書けるよ。そう思ったので、実際書いてみた。書き続けるのはけっこう難しいことのようだ。このブログでどうでもいいことを書いている。しかし書き続けるのはけっこう難しい。数年前まで毎日書いていた。今はTwitterにネタを書いているだけで、実際にはたいして変わっていないのだが。でもブログにしようと思うと、わりと難しくなってしまった。老化、というよりは、長文の書き方をちょっと忘れてるだけっぽい。まあ、書いてればそのうちカンも取り戻すだろう、それぐらいの楽天的な感覚はある。
毎日続けて何か意味があったのだろうか。あるいはそのうち意味が出てくるだろうか。意味なんてなくてもいいじゃん、と思える日もある。思えない日もある。昨日の僕と今日の僕が同一の意見である理由もない。
なんだかわくわくすることをしたい、と思える。それはライフハック本を読んでもそうだ。たぶん、読むと「俺も何かできるんじゃないか」と思えるところが、ライフハックのいいところなんだろう。実際、読んだだけで終わってしまうところが、酒を飲んでる程度の気分の良さでしかないのだが。ちゃんと続ければ、有用なことはわかっている。でも続かないようだ。
さて、ぐだぐだの文章を書いているので、そろそろまじめに書こう。
ある商品についてだ。
GoProというカメラがある。エクストリーム・スポーツや命知らずな挑戦者たち、そして爽快かつ壮大な光景を手軽に記録できるようにしたアクションカメラだ。わかりやすく説明したサイトはこちら。
http://www.gizmodo.jp/2013/11/gopro12.html
こんな感じ。
僕はこの動画が、とても好きだ。
カメラを使ってこんな絵が撮れますよ、という映像部分もいいんだが、このCEOのにいちゃんが楽しそうなのがスゴクいい。楽しいことをしている、と感じる。自分は楽しんでいる、と感じる。もしかしたら表向きのただの表情の演技かもしれないが、それでも面白そうだと思える。
僕だってなにか面白いことをしたい、と思える。
僕は今、小さなことしかできない。でも僕が楽しいので僕がやる。このブログに書かれている文章もまた、そうやって存在している。楽しいことをしたい、というライフハックが、ちゃんと実践した結果がある。酒を飲んで、やった気分になっているだけでは、もったいないかな、と思ったんだ。できれば、他の人にも楽しんでもらえる文章が望ましいわけだが。それは理由としては二番目だ。

信じると信じないを同時に

血液型占いが好きな人がいる、血液型占いを信じていない人がいる。血液型占いを信じていない人は「あんなの嘘に決まってるじゃん」といって、信じている人をたたく。そんな姿をわりと見かける。占いだけじゃない。たとえば新聞やニュースなどのマスメディアに対して、マスゴミというスラングを使い、インターネットのほうが正しい、と信じている人がいる。逆にマスメディアを正しいと信じている人もいる。
なぜそんなにメディアを信じているのか。なぜそんなに血液型占いを信じているのか。なぜ自分は正しいと信じているのか。
信じるとはなんだろう。
僕は信じるということを疑っている。同時に、信じるということを信じている。量子コンピュータみたいに、逆のことが同時に存在して当然なのだ。本を読みながら音楽が聴けるのを当然だと思うように。HBの鉛筆をベキッとへし折るように。当然だと信じている。なぜ、どっちかしか持てないと信じていたのだろう。

凍った麦茶を持ってきた女の子を見て思ったこと

なにかもっと効率的なものはないのか。
・ペットボトルをまるごと凍らせる場合
 利点:飲み終わった後、ボトルを破棄できる。
 問題点:とけるまで飲めない。結露する。
 解決方法:半分ぐらい凍らせることはできるか? ケースに入れることで結露を防げるか?
・氷の入った水筒を持ち歩く場合
 利点:すぐ飲める。冷たさが維持できる。結露しない。氷が残っている場合、飲み物が補充できる。
 問題点:飲み終わったあと水筒を持ち歩く必要がある。重たい。
 解決方法:水筒を捨てることはできるか? 水筒の軽量化は可能か?
・根本的に、凍った麦茶を持ち歩くのは非効率的であり、自販機で購入した方が効率的なのでは?

頭を耕して庭を創る

森博嗣を久しぶりに読んでいる。「人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか」という新書である。小説ではなく、抽象的な考え方について書かれた本だ。まだ読み途中だけれど。後半ぐらいに庭造りについて書かれていたので、まねをしてみることにした。真似というか、すんなりと理解できた部分という意味で、僕はブログで毎日頭を耕していたのだな、と思ったのだ。
ここのところ、書きたいときに書けば?という方針に転換してみた。誰からも強要されているわけでもないし、無理をすることはない、金になるわけでもない、と考えていたからだ。なので一月に数日しかかかない日が続いた。
しかし、もうちょい書いてみることにする。頻度をあげてみようかな、と思った。実現するかはわからないが。頭を耕すってそういうことなのだろうな、という文章を見つけたからだ。そうやって庭を創っている。どうでもいいことを見つけ、考えている。言語化に落とし込む必要はないはずなのだが、言語化という最終目的があるとモチベーションがあがる。探そうという気になる。
自分で見つけて、自分で考えて、自分で文章にしている。他人から「そうじゃないだろ。こうだろ」と言われることもある。言われるとラッキーだ。「そうか、違ったのか」あるいは「いや、それだとおかしい。なぜならこうだからだ」と理解が深まる。

自費出版したがるご老人が欲しいのは、手に取れる紙か

10年ほど前の話だが、印刷業に携わっていたときの話。ある老人が会社にやってきて、自分の書いた小説を本にしたい、と言った。そのとき、自分のいた会社はオンデマンド印刷というものに力を入れており、自費出版の話もそこからの展開だったようだ。その老人は、原稿用紙に手書きの文字で入稿してきた。
会社は印刷業であって、出版社ではないので、編集者を一人入れた方が良い、という話になった。そこで僕の手元から離れたんだけど、原稿をちらっと見せて貰ったところ「てにおは」さえもおぼつかない文章で、「です。」と「だ。」も混在している、一行の中で一人称と三人称がごっちゃになっているなど、まあありがちな素人らしい文章だった。当時僕は文章についてそれほど造形が深いわけではなく(今でも深くはないが)自分の本を作りたい人ってのは本当にいるのだなぁ、と思って見ていた。オンデマンド印刷は部数が多くなれば多くなるほど高価になってしまうため、小説のようなページ数の多いモノには不向きであろう。薄い本だったのに、結局1冊1000円以上になったはずだ。どれだけ作ったのかは僕は知らない。
近年電子書籍が普及してきて、ふとこの老人を思い出した。自作でKindleに出そうと思えば出せるのだろうか、と思って調べてみた。しかし、調べている最中で、たぶんこの方向は老人の望んだ結果にはならないのだろうな、と思い直した。
老人は、周囲に配りたい程度なのだろう。それを売って儲けたいわけじゃない。仕事じゃない、ただの趣味だ。配るのに、紙は便利だ。電子書籍を出して、誰もが手に入れられると考えるのは逆で、電子書籍なら読めない、という人のほうが大半のはずだ。老人になればなるほどそうだろう。ガジェット大好きな自分の身の回りでさえ、電子書籍に手を出している人はごく少数だ。
電子書籍には電子書籍の良いところがあるが、なんでもかんでも電子書籍にしてしまおう、というのはない。両方出すとユーザとしてはありがたいが、紙のほうが単価が高くなっていくだろう。

噂話と占い師のリアリティはノンフィクションに依存している

噂が好きな人間がいる。ドコモのiPhoneがいつ出るだの、部長と受付の子がつきあっているだの、まあそういうたぐいのありがちな噂話だ。そして占い師という人間がいる。星の位置やら手相やら運命とやらを見ることができる。
彼らが話しているのは本当のところフィクションだ。ところが作り話にリアリティが足らない。なのでノンフィクションという単語で補っている。それが噂話であり占い師発言だ。フィクションを愉しむのはかまわない。だが、その作り方が気に入らない。少なくとも僕は嘘つきだ。ウソを作る人間でありたい。ウソとはフィクションだ。フィクションにリアリティを与えるのはノンフィクションなんて単語じゃない。

ドクロのダイス

k4k2013-08-27

ダイスマニアのサイコロコレクションシリーズ。
友人ゆーさんからのもらい物ダイス。1の目がドクロになっており、他は骨でローマ数字を表している。ダイスの大きさは、1片1cm程度。おそらく木製。全面塗装されているので重量と感触から判断。
中華街の「武器屋」という店で購入したとのこと。しかし今調べたら、秋葉原の武器屋は休業中なのね。一度行ってみたいところだったのだが。そういえば、中国でロシアと北朝鮮の国境付近に行ったことがあるのだが、ロシア人が経営しているの観光武器屋(こちらも飾り用で実用品ではない)に入ったことがある。こういうの好きな人ってわりといるんだろうね。