世界の翻訳

ブッダは、自分が見ていた悟りの世界を他人に伝えるために「悟り」を言葉に「翻訳」して伝えた。あるいは行動に翻訳して伝えようとした。
だが翻訳はうまく可動していなかった。さまざまな宗派は分裂し、教えはいくつにも解釈を生んでしまった。キリスト教もまた同様だ。イエスは美しい世界を見ていたが、それを他人に伝える「翻訳」がうまくできなかった。
ブッダやキリストが奇跡を起こして見せるとする。それを見て、彼は仏だ神だと、多くの人が言ったとする。ところが本質は、奇跡を見せた時点で失われている。人は奇跡ばかりに目を向けてしまう。そういう「証拠」あるいは「理由」に依存してしまう。
こういう理由で彼は悟ったのだ、という理由を多くの人が信じているが、理由は本来、現象の後付にすぎない。すべてにおいて現象が先だ。証拠を欲しがる人は、信じるという行為を知らないだけだ。信じるのに、理由はない。
ブッダの見た悟りの世界を、残念ながら「翻訳」を通してしか見ることができない。彼が見た世界を、翻訳なしで見ることができたら。それは別にブッダに限らない。あなたも。僕も。尊敬する誰かも。
たとえばどうにかして君の中、入っていって、その瞳から僕をのぞいたら、いろんなことちょっとはわかるかも。