長文を書く能力、何かを発見する能力

なんだかここでの文章を点々としか書いていないので、自分が長文を書く能力が失われていく気がしてしまった。たまには長文を書いてみる。うん、書けるな。脳をそういう回転数に持っていけるかどうかが、体感としてわかる。この感覚があれば、まあ大丈夫な気がしている。つまりダラダラしている、とも言える。
自分が日々使う能力は、自然と伸びていくような気がしていて、僕は日々、どうでもいい事や面白い事を考えている。なので、わりとどうでもいい事や面白い事を思いつく。多くの人はいったい何を考えているのだろう。
道を歩いていると、ふらふらと歩いている人間がとても多い。携帯電話の画面を見ているときもあれば、何もしていないのにまっすぐ歩けていない人もいる。なぜまっすぐ歩けないのだろうか。まじめに歩いていないのだろうか。だとしたら何に能力を使っているのだろう。
歩くのが遅い人間がいて、歩くのが早い人間がいる。たまたま歩く才能が僕にはあった、というだけだろうか。同じように商才のある人間は、商才のない人間の商売方法を見て「なにをだらだらやってるんだ」と思うだろうか。この文章を見ても、文章の才能がある人間から見たら、何をダラダラ書いているんだ、と思うのだろうか。
ある人が、一日のブログで1万文字近くを書いていた。文才があるのだと思うが、本人はそれを商売にする気はないらしい。もちろん自由だし、それは贅沢なことだと思う。そもそも、才能にはいろんなものがある。金になる才能ばかりではない。金になりやすい才能と、しづらい才能があって、歩くのが早いのは金にしづらい才能だ。あと僕にはカレーうどんが跳ねない、という特殊才能を神から承っており、これもまた他人からうらやまれる生唾ゴクリものの才能だが、金にはしづらい。
ここで長文を書く才能は、金にはならない。
だがもしかしたら、誰かが楽しめる、何かを気づくきっかけになる、そんな文章だったら、それは楽しいことかもしれない。それは僕の才能じゃあなくて、見つけてくれる人の才能なのだけれど。