料理の才能、言葉の才能

才能の差というものについて考えている。天賦の才というものは確かに存在している。
たとえば料理の才能について考えてみよう。
僕は料理をしている時も調味料を計量するし、紅茶もタイマーをセットして淹れる。そんなことをしているからなのか、わりとストイックだとか、きっちりしている性格だと言われる。だが僕から見れば、これは料理の才能がないために起こる行動なのだ。
料理の才能がある場合、「この程度でいいや」という量の調味料を入れることができる。なぜそんなことができるのか、それは入れた調味料の量で、どの程度の味になるのか想像できるからだ。そしてその想像と現実にほとんど差がない。
僕の場合は、「この程度」がよくわからない。何度も作って暗記して作れるような料理ならわかる。だがそれ以外はどんな程度の味になるのか、よくわからない。だから計量せざるを得ない。料理は好きだが、僕には才能がない。わりと自炊するし、ケーキも作るが、この程度という程度がよくわからない。
平野レミさんのレシピを見ていた。適当にお手軽にできる料理のレシピで、しかも聞いただけでうまそうだった。料理の才能があり、研究をしているのだろう。この研究という部分は「言葉」の研究がふくまれそうだ。うまそうな言葉を選ぶ。うまそうな写真を選ぶ。うまそうなにおいを伝える。味を伝える。それは料理の研究ではなく、言葉の研究のように思える。だがそれも必要なのだろう。
ネットの世界も、多くの社会も、まだまだ言葉が支配している。youtubeやにこにこ動画なんかが出てきて、やがて動きが支配する世界になるだろうか。最近のレシピ本に動画DVDがついているなんてこともある。
でも写真検索もできない世の中なので、そうなるのはまだまだなのだろうな。
言葉の才能が必要な世界だ。