雷句誠と荒川弘の「食べる」について

雷句誠の「どうぶつの国」と、荒川弘の「銀の匙」を読んでいる。どちらも「食べる」という行為について、真摯に向かい合っている。食べることは、他の命を奪うことで自分の命を永らえることだ。ぼんやりと毎日食事をしている僕に、自分が他の生命を食べているということを意識させる。料理漫画ではなかなかこうならない。生きてるってことは、命を奪うことを当然のようにやっている。
そこで二人の方向性の違いが感じられた。
それは痛みを無くす方法と、痛みを抱える方法だ。
雷句誠ユートピア論を立ち上げた。食べるという行為は命を奪う行為で、綺麗事では終わらない世界に「完全無欠の植物の実があれば」と考え、世界中の動物が話せるようになる、という装置を考えた。僕はユートピアがあればいいとは思っている。しかし、人間は話し合えるが暴力はなくならないところを見ると、どこを落とし所にするのか楽しみにしている。
これは世界の痛みを消す方法だ。
対して銀の匙は、痛みに対して真っ向勝負する。舞台は畜産農業高校で、都市部にいた普通の学生が入学してくる。そこで生産性の落ちた鶏がつぶされるのを哀れんだり、自分の世話した豚をつぶしたりする。そこには理想論が存在せず、主人公は苦悩するが、それでもなお耐えて立ち上がる。登場するキャラクタも一次産業関係者なので、命を奪うことを当然に受け入れているが、主人公はそれに疑問を持つ。現状の畜産をしっかりと捉えているので、ネタは尽きないだろう、いつまでも楽しんでいられそうな作品だ。
これは痛みを抱える方法だ。
飽食の時代なので、どこでも好きなだけ食べられる。だからこそ「必要な量だけ」食べたらよい。奪った命なのだから、おいしくいただきましょう。ちなみに僕は食べ物の好き嫌いがあってもよいと考えている。嫌だと言われて食べられたくないでしょうし。