車と道路、あるいはiPhoneとインフラ

いままでの形状はこうだ。
「道路がこういう造りだから、こういう車を作れよ」
NTTやドコモが、メーカーに対して携帯電話の要求をしてきた。こういうハードを作れ、と。だからメーカーはその中で作った。インフラが強い状態のときの話だ。
ところがiPhoneの登場でこれが逆転した。
「こういう車を作るから、道路をこうしろ」
道路の混雑を解消するために、SoftBankAUも躍起だ。ドコモは参入したいのだろうけれど、いままでの経緯が上記のように自分主体であったため、Appleのようなメーカー主体の形状に慣れていない。
どちらが正しいのか、という話ではなく、どちらが優れているのか、という話でもない。今、どういう形状にあるのか、という話だ。インフラを駆逐するキラーコンテンツiPhoneだ。車というものは便利だが、みんなが乗るとそのために、道は混雑してしまう。
みんなの意見を聞くべきだ、と多くの人は言うだろうが、そんな思想の真逆からiPhoneは作られた。Androidはみんなの意見を聞き作られた。そのため多くの機能を搭載したが、そのせいで鈍重になってしまった。これもまた、どちらが優れているかの話ではない。
民主主義では理想にたどり着かないが、独裁主義ではたどり着ける。しかし理想の完成は、成長の終焉とも言える。たどり着かない事が成長し続ける事とも言える。自分が民主主義にいるから社会主義共産主義が間違っているという視点は愚かだ。どれもすばらしい世界へ向かおうとする意志から作られたはずだ。