善意や悪意が加速している

情報が早い。そして燃え上がりやすい。まるで綿毛のようだ。あっという間に炎が広がる。そして燃え尽きて消えてしまう。情報の有様がそんなように見える。善や悪の情報が加速的に広まる場合、どんな問題が起こるのか? あるいは有効な利用方法はどのようなものか? そんなことを考えている。
例えば、これが悪意だ。

ピザーラの宅配バイクが起こした事故〜信じられない悪質な対応
http://ameblo.jp/lim-untlim/entry-11065958332.html

こういう情報を、Twitterに流したり、mixiで語ったり、Facebookで取り上げたり、あるいはブロガーがもてはやしたり、ブックマーカーがコメントしたり、いろんな方法で、いろんな人間が、ピザーラを叩くだろう。犯罪しちゃいました告白のツイートも同じだ。それが悪意だ。善意の皮をかぶっているから、見分けづらいだけで。叩きやすい形状、暴力を振るいやすい仕様にしている。
同じように善意にも加速がある。
子どもの心臓手術のための募金活動で、何億円かが集まったとする。だがそれは、心臓を新規に調達できるわけじゃあなく、順番を早くするためだけで、順番をまじめに待っていた人は、後ろ回しの犠牲になったのだ。だが善意だけが加速し、そのバックボーンを忘れてしまう。見えなくなってしまう。子どもが助かった、よかったよかった、おわり。…という漫画のような、あるいは絵本のような、勧善懲悪の世界に見えてしまう。
他人が悪意を、あるいは善意を加速させていて、スポットライトを操るように、人の視野を搾取している。