そんなつくり話

羽生はため息をついた。同時に対戦相手は、蒼白な表情で息を飲んだ。
チェス界最強のチャンピオンがこの程度か。
フランスチェスのチャンピオンとの対戦中だった。ビランドリー城。16世紀に建てられたこの建築物が対戦の場所である。その美しい室内で、羽生とチェス盤を挟んでチャンピオンが座っていた。目の前のチャンピオンとは名ばかりの若造は、今にも泡を吹いて倒れるんじゃないかと心配になる顔色だった。
チェス盤を見ればすぐにわかる。
圧倒的な差で羽生は有利だった。誰が見ても明らかだった。
相手は時間いっぱいまで粘り一手一手を丁寧に指している。指先は震えていた。まるで少女のようだ、と羽生は相手の太い毛むくじゃらの指先を見て思った。そして今、羽生は手を止め、初めての長考に時間を使った。
それはチェスを指すためではなく、このあとどうしたいのか、という生き方の長考だった。
羽生は少し前に読んだ少年ジャンプの漫画を思い出した。それは各界のチャンピオンを圧倒していく王の話で、王に負ければチャンピオンは殺されてしまう。王は人間ではなく、圧倒的に有能で、チェスでもリバーシでも麻雀でも、誰一人勝つことができなかった。チャンピオンはどんどん殺されていき、王は人間に失望していく。
羽生は、自分がそんな王になってしまった気分だった。
対戦相手の家族が、彼の背後で見守っていた。小さな子どももいた。きっと彼の子どもなのだろう。
羽生は再びため息を付き、長考をやめ、ポーンを動かした。
キングの詰みを逃した。
相手は、はっ顔をあげ、羽生と目が合った。羽生は静かな瞳で相手を見た。引き分ければ、相手のメンツも保てるだろう。そんな一手だった。相手もその一手で見抜いたのだろう。チャンピオンは悔しそうな表情に変わったが、すぐにその表情は消えた。
私は人間で、あの王とは違う。
羽生は静かに対局を進めた。

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羽生二冠、チェスで仏チャンピオンと引き分け
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