知識と認識は別

「ボールを蹴って、相手のゴールに入れればいいんだろ。手は使わない」ってサッカーの認識。まあ多少イロイロルールはあるんだろうけど。で、そんなふうに知っているのと、実際できるのは別の話だ。アイススケートは見たことが在るし、原理もわかるが、実際すべれるかどうかは別。
そんな風に、知っているのと認識できるのは別だ、と感じることがある。
腑に落ちる、というものを感じることがある。「ああ、そういうことだったのか」と後になって思う。あのときは言葉面だけで知っていたがようやく納得した、とかもそうだ。そういう、認識だ。さまざまなもののフレームワークについて考えることがある。概念化の一部だが、これは知識とは別に、そういうものが存在している、という認識ができないと、活用することは難しい。見るんじゃあなく観るんだ。知るんじゃあなく識るんだ。
この認識というものは、知識という土台があるから成り立つものなのだろうか。それともまったくそんなものはなくても、認識できるものなのだろうか。もう少し考えるとするか。