経済肥満と情報肥満

あるモンゴル人がいて、彼はウランバートルに大学を作り、モンゴルを経済大国へと押し上げてみせる、と言った。
それを見ていたもう一人のモンゴル人が、彼に言った。
「日本人はモノがあふれ過ぎ、持つことに拘りすぎている。それは、我々のように広大な土地でたまーに人に会うことよりも、よっぽど孤独なことじゃあないか。お前がやろうとしていることは、この雄大なモンゴルを、ものがあふれて孤独な人間ばかりの日本と、同じにしようとしているんじゃないのか?」
このように、経済という観点から見て、幸福とは経済大国のことではない、とそのモンゴル人は考えていた。
…上記のような「経済」を「情報」に置き換えてみる。
金を持つことが幸福ではないように、情報を持つことが幸福なのか、と言われると別なのだ。しかし、その区別がついていない人間は多い。たとえば「情弱」というスラングがあるが、この単語が作成されることを見ても「情報を持つことは強者」という意識が働いている。情報を持っているほうがよりよいのだ。
インターネットの発達でイギリス人が「自分の国の料理はまずいらしい」と知ったとする。
でも、子供の頃からイギリス料理を食べて育った人間が、他の国の料理を食べてうまいと思うのだろうか? 日本のように他国の料理が大量にある国はきわめて珍しい。中国に行ったことがあるが、中国料理しかなかった。彼らはウマイパスタなど永遠に食わないのだ。そうやって生きて死んでいく。だとしたらうまい料理を食わずに生きて死ぬイギリス人は、うまい他国の料理を出されて、食べることができるだろうか? これだけ料理のあふれている日本でさえ、パクチーがダメ、ブルーチーズは食えない、納豆はまずい、と言い出している。つまりそれだけ味覚が幼稚(舌が摩耗していない、味蕾が残っているということなのだが)なわけで、生まれてからうまいものを食べたことがないイギリス人は、うまいと認識できないのではないか。
…さて、この「うまい料理」という「情報」を持つことは幸福なのだろうか? うまい料理を食う必要って、あるの? うまい料理を食べることは幸福だろうか? それを食べたことがない人間がいたとして、彼らは彼らなりの幸福を持つのではないか。北朝鮮の国民は自分たちが不幸であると認識するだろうか? この情報を持つことは幸福になるだろうか? 日本人はどんな情報でも欲しがるが、情報が人を幸福にするだろうか?
「情報が欲しい」という意識こそが、すでに欧米化の一種であり、金を持っているほうが幸福だ、というモンゴルの人間から見たら「馬鹿なのか?」という意識と同じなのではないか? 情報を持つなんて、結局のところ、情報があふれ、孤独になるだけではないか。経済もそうだし情報もそうなのか。それは肥満のように。贅肉のように。必要なのは「ほんのちょっと」だ。それ以上は、ただのデブなのではないか? 経済的肥満や、情報的肥満について、そのうち問題になったりするのだろうか。人間関係不全に陥っているヤツがたまにいる。彼らは人脈肥満なのではないか。