「心配したい」のであって「助けたい」のではない

僕の祖母はひどい心配性だった。そんな彼女を観察していて気づいた。彼女は自分のことしか考えていない人間であった。悪い人間である、と言っているわけではない。彼女はとても善良であり、多くの人から愛される人間である。彼女は他人を本気で心配しているのだが、それに対して手を打とうとか、自分に何が出来るのか考えるなどは、まったくしない。「こうすればよい」という僕の提案はいっさい聞き入れられなかった。
彼女は「心配したい」のであって「助けたい」のではないのだ、とある日、気づいた。
被災についても、同じものを見かける。「批判したい」のであって「改善したい」のではないものや、自分の過去の発言の中にも見かける。問題と責任についても見かける。怒鳴りたいだけ、怒りを撒き散らしたいだけ、という人間を見かける。
「自分が誰かからそれをされたら、自分はより良くなるだろうか?」そんな発言を考えている。