主体について

主体をとり間違えている人がいる。
主体は常に自己だ。だというのに、客体を主体のように勘違いしている。
金を使うのではなく、金に使われている。常識を振り回すのではなく、常識に振り回されている。健康を使うのではなく、健康に使われている。時間も、意識も、様々なものがそうだ。暴力のように、それを自分がふるっているという自覚もなく、ふるわれているという自覚もない。
ある人が、僕の持っているバッグを見て言った。「高いバッグよね、いいわね、あたしなんて何年もこのボロボロのを使ってるわ」うらやましそうだった。たぶんうらやましいのだろう。女性もののバッグだったし、たしかにそれなりにイイ値段したはずだ。だが、そいつが昼飯に1000円のランチを食べている。本人は金に使われていることに気づかない。
他人事だろ、と言えばそのとおりだ。僕の知ったことじゃあないかもしれない。だが、僕より幸福になれる素質がありながら、なんでそんなに不幸気取りなのかが、理解できない。勘違いした謙虚さで、本人は幸福になれるのだろうか。(謙虚さは本来、自分を幸福にするためにつかうものではないので「勘違いした謙虚さ」と表記した)