マイナスの機能

美徳と呼ばれるものがあり、大罪と呼ばれるものがある。多くの人が欲しいという感情があり、多くの人がいらないという感情がある。
それについて、考えている。
たとえば、結婚と離婚、両者はまったく反対のように見える行動だが、行動原理そのものは同一である。「幸福になるため」だ。両者は幸福になるために行動している。同じように、まったく反対に見える美徳と大罪を、同じ機能として捉えることはできないだろうか。
たとえば、霊感という機能がある。人によってあるヤツもいれば、ないヤツもいるだろう。だが、両者を見ていると不思議に思うのは、霊感がある人間はない状態にできないし、ない人間はある状態にできない、というところだ。それは機能から見れば「電気がつけっぱなし」か「電気が消えっぱなし」と同じではないのか。どちらが優れているか、という話ではない。なぜつけたり消したりできないのだろう?
僕はそれを考えている。霊感がある、というヤツはだいたい目が開きっぱなしと同じだ。目を閉じるという機能が不全なのだ。だから問題が起こることがある。見えてしまうということが逆に恐怖になっている。
さて、話が最初に戻って、美徳と大罪についてだ。
怒る、食欲性欲が旺盛、自慢したがり、多くを欲しがり、怠けたい、他人や物事を信じない、他人をうらやむ、痛み苦しみ悲しむなど、このような罪と言われるものを、多くの人は自分から排除しようとしている。
だが、それを機能として考えてみる。その罪を、そのマイナスを、機能として考える。たとえば、科学は「疑う」「不信」というものから発生する。「もっと便利にしたい」「もっと楽をしたい」というものから育つ。リンゴの落下は当たり前のことだ、と信じているから、万有引力を発見できない。落ちることを信じないことから始まる。
そういった罪がなくなってしまった場合、どうなるのか? 科学は育たないのではないか? それは目が開きっぱなしのように、閉じる機能不全ではないのか。問題なのは、その罪があることなのか? そうではなく、スイッチのオンオフではないのか? では科学ではなく、意識だったり知識だったりはどうだろう? 自分の生活環境はどうだろう? そんなふうに、機能としてマイナスを捉えることが可能だろうか?
感情に支配されるのではなく、感情を支配する。主人は僕であり、感情ではない。この主体の差が、マイナスを機能として捉えるか、主人として捉えるかの違いのように考えている。さて、この考えは僕にとって便利だろうか? そしてこの考え方を機能として捉えた場合、どんな不利点が存在するだろう?