説教は誰のために在るのか

なんか、自分で言うのもなんですが、ここのブログの文章には、エラソーなことが書かれていることがある。上から目線!ドヤ顔で!書いているはず!って感じの文章!(いたって無表情で書いてますが)
で、そういう説教したい気分、とか言う人、わりと多いんじゃないかなぁ。まあ、されてるほうは気持ち悪いしウゼェって答えになるわ。オマエの奇麗事は当事者じゃねぇからだ、って返事になるわ。
なんかねぇ、自分がそういう奇麗事を並べ立てるからこそ、自戒しなきゃあならんと思うのです。少なくとも「説教したい」みたいな気持ちで紡がれた言葉は、誰にも届かない。説教されたことがあるからわかるだろうに。バカだから忘れているのか。みんな昔は子供だったはずなのにな。
「自問自答する」「自分に対して苦言する」「概念化して使いやすい形にしておく」「自分のために使う」 そういう言葉が、他人も手に取って使いやすい言葉だろう。他人のために、なんて用意してあげたものなんて、誰も使いたがらないだろうよ。だいたい「してあげた」って何様だ。