腑に落ちたり、落ちなかったり

すごく腑に落ちるときと、腑に落ちないときがある。「ポアンカレ予想」もそのうちの一つ。読むときどきによって「ああ、それってそういうことだったのか!」って理解した気分になるときと、「全然納得いかねぇー!」ってときがある。まあ理解が浅い、ってだけなんだけど。
ただ、理解していなくても「ポアンカレ予想」とはこういうものだ、と答えることはできる。これの答えがウィキペディアに書いてあるようなことだ。ブッダとシッタカブッタみたいに、両者は同じことを言うし、質問に対しても同じ答えを返すだろう。片方は腑に落ちたもので、片方は腑に落ちない(かもしれない)。腑に落ちなくても、答えは返せるのだ。
理解そのものは、目に見えず、言葉にもできない。保存はできない。保存したいという気持ちが、文章となり残っているが、理解の本質は、やはり保存できない。
物語を読んでいても、そんな風に感じることがある。あるときは腑に落ちるが、あるときは腑に落ちない。そんなことがある。腑に落ちたときは、腑に落ちないときのことが理解できず、その逆もまた然りだ。
一人の人間の中でさえ、そういう齟齬がある。
理解という不確定な状態が、維持できるのはどうしてだろう? 理解はそういう不確定なものだ。