「自分がわいせつなのだろうか?」

mixi言葉狩りのネタを見ていた。書いた日記がmixiの運営に強制削除された。理由は「わいせつだったから」とのこと。ところが書いた日記を読み返しても「どこがわいせつだったのか」がさっぱりわからない。という話である。まあ、詳細とかは知らないし、mixiにはmixiの、本人には本人の考えがあるだろう。
で、そういう話を見ていて思ったのだが。
「自分がわいせつなのだろうか?」と問う人がいた場合、自分がわいせつだという認識をしていなかったが、なんらかの指摘を受けたことで、「自分はわいせつなんじゃないか?」と疑問に思ったのだろう。
そういう場面は、多くの人にあると思う。自分が間違えているんじゃないか? 自分がわいせつなんじゃないか? 自分が悪いんじゃないか? という意識だ。これは自分が正しい、という善側の意識だ。
僕が疑問に思ったのは、その逆の意識、悪側からの意識に疑問を持つって、あるのだろうか?
「自分は正しいのだろうか?」っていう人はいる。でも「自分が正しいのだろうか?」って言う人、あんまり聞かない気がする。なぜ、悪側からの視点は、全肯定できるのに、善側からの意識は、肯定できないのだろう?
正直、僕の日記の一部が突然消されて運営側から「わいせつだから」といわれたら「そりゃあな!」って答えるぐらいわいせつですよ。あんまり直接表現使ってないだけで、お姉ちゃんの入ったコーラ風呂を飲みたいとか言ってますよ。お姉ちゃんの使ったあとの歯ブラシなら使えるとか言ってますよ。それぐらい悪側からの全肯定をしている。
なんで「自分は正しい」みたいな善側の意識は、そんなにも弱いのだろう?