目の悪い男の話

キャッチボールができない子供だった。目に障害があったので、モノが立体視できないのだ。そのことを理解したのはずいぶんと大人になってからだ。
それまで、運動神経が鈍いからだとばかり思っていた。高校時代、体育の時間にサッカーをしても、バスケをしても、そこそこのポジションにいたのは、足が速かったというのと、体育会系の友人ばかりだったからだ。実際に役に立たなくても、自分は役に立つと思い込めば、それなりの役に立つものだということを実体験している。
話を戻そう。
僕はそうやって、眼の悪い人生を送ってきた。かわりにぼんやりとした世界を、他人より多く見ていたのかもしれない。はっきりとした世界を見てこなかったからかもしれない。
いつの間にか、物事を概念的に見るようになっていた。どうやらこの能力は、わりと便利な能力らしい。これも他人から言われて初めて気づいた。どうやら「メタ思考」なんて名前らしい。難しい単語をいわれてイイ気分になっていた愚か者が僕だ。
しかし、本当のところ。僕は障害を持っているのだ。そして、自分の障害が、やっとわかった。
僕はぼんやりしか見えていない。見ることができない。視点や焦点が合わない。目の問題じゃあない。認識がそこまでしか認識できない。問題なのは、認識できないという自覚がないところだ。概念的に見るぶんにはいい。でも、それしか見えないのは問題だ。それを自覚していないのは問題だ。
ある約束があって「何月何日の何時ぐらいだった」というのは覚えている。でも明確な数値が思い出せない。ある着物があって「こんなふうな柄だった気がする」というのは覚えている。でも明確な柄は思い出せない。そんな風に、すべてが薄ぼんやりとしていて、その自覚がない。
見ることができないのなら、なんらかの対策をとろう。本当に悪いのは目じゃあなくて、頭だろ。バカが自覚できたなら、まだ進める。