常識の盾、非常識の矛

まあ、僕ぐらいうすぼんやりと生きていると、常識と言われるものがかなり欠落している状態でも生きていけます。東京に何十年住んでいようが、山手線一周なんて言えるとは思えないし、自分が日々乗っている通勤電車でさえ、途中で寝ているので順番やら駅名を覚えてないかったり。
そんな程度の薄ぼんやり感なので、正直「自分が正解である!」という意識があまりない。ただ、なんとなく「そうなんじゃないの?」ぐらいの意識しかない。僕の常識の盾とか、すげー薄い。装甲が紙。
ただ、会話の立ち位置として、主義主張として「こうだ!」と表明する場合はもちろんある。でもその場合も、自分が正しい、という立ち位置で行動し言葉を発するだけで、本当に正しいかどうかなんて知らない。
対抗する誰かがいて、その人が正しい発言をして、僕の発言と矛盾したりすることがある。その場合、相手の発言のほうが多くの人の支持を得たり、得が多かったら、僕は平気で自分の主張を捨てて相手に乗り換える。もちろん僕の主張のほうが強固で勝ってしまう場合もあるが、それはただ、こっちのほうが硬かったなぁ、という程度しか感想がない。
そんな程度のうすぼんやり感で、僕という人間と、意見という武器が乖離している。一応、持ち合わせは多少あるけど、もっとイイヤツあったら、そっちに交換すりゃいいじゃん。自分の持ち合わせと相手の持ち合わせ組み合わせて、もっと強い意見にしちゃえばいいじゃん。意見にすがったり、振り回されるんじゃあなくて、意見を振り回せばいいじゃん。