数ある仮説に過ぎない

僕はわりと適当なことを言う。よくわからないことに対して「こうなんじゃないの?」みたいなことも言う。先日、ipadの優れている点やダメな点について書いたときだって、本気でそれを信じていて、反論は許さん!なんてことはない。
だいたいiPadが売れる理由で、多くの人を納得させたいのなら、一番わかりやすく、誰も反論できない理由がある。そういう「ジョブスのスタンド能力」である。
でも、そんなん求めてないんでしょ。ipadが売れるという現象が見えていて、それを自分の理屈に当てはめたい、という、ただの欲求だ。納得が全てを優先する、という欲求だ。
僕が出した仮説より優れた、より納得がいく仮説が出たら、僕は平気でいままで言っていたことを捨てて、そちらに乗り換える。そっちのほうが得だし。
どうも、こういうことって、理解されづらいようだ。みんな信念を持って、自分の言動と行動を求められているのだろうか。有権者から献金でも貰っているのだろうか。
僕が信念を持っているとしたらなんだろう。割と他人より損得勘定が強いようだ。「損得勘定は2番目に強い行動理念である」という考え方が、わりと気に入っている。