社会の透明性は、コミュニケーション能力依存の離脱から始まる

なんか、コミュ力についての文章を、最近やたらと見かけるので、僕も書いてみようと思う。これが僕の考えているコミュ力である。
今まで、古い社会はコミュニケーション能力に頼っていた。これを悪い表現で言うと癒着と言い、良い表現で言うと人徳人脈と言う。両者は同じものだ。見え方が違うだけで。結局、人と人とのつながりであり、透明度が低く「あの人だから安心ね」という意識で仕事を発注していた。
それが悪い、と言っているわけではない。それは不透明だ、と言っている。そしてこれから透明になってくだろう。どんどんなっている。癒着は減り、天下りもしづらくなっていくだろう。人脈や人徳に依存しない社会を目指しているのだから。
だとしたら、コミュニケーション能力は、本来もっと不要になっていく。コンビニでカタコトの外人だって働けるのは、そういう形状だからだ。コミュニケーション能力なんてなくたって働いていける。
ただ。コミュニケーション能力は学力と同じように、武器になる。社会に出て、学力とか別に関係ない、と感じることもあるだろう。どんなにいい大学出たヤツだって馬鹿は馬鹿だし、中卒だって賢いヤツはいっぱいいる。だが学力があったほうが便利なときがある。無人島に行くのにナイフぐらい持っていったらいいんじゃない? それが学力だったり、コミュニケーション能力だったりするだろう。