大罪を使役する

七つの大罪というものがある。たぶんキリスト教だ。その罪を犯すべからず、自分から排除しよう、という動きが教義として見受けられる。だが、僕はそれがヘンだと思う。なぜ、人間には大罪が備わっているのだろうか?
そこで思いついたのが、大罪とは、人間にそもそも備わっている「エネルギー」ではないのか、という考え方だ。
怒りや絶望や性欲もそうだが…人はそのエネルギーリソースを利用できる。怠惰のエネルギーを使い、現代社会は発展してきた。もっと楽がしたい、そのために努力をしてきた。結果が現在だ。もちろん、怠惰が悪い方向に進むことだってある。つまり怠惰とは、ただの「エネルギー」であり、それ自体に善悪の概念はないのではないか? 人間の使い様によって、より良い方向に使えるのではないか?
ときどき「絶望」のエネルギーに圧し掛かられることがある。わりと強い。誰だってあるだろう。「死にたい」そんな気持ちだ。そのまま押し切られてしまうと自殺してしまう。なぜだ。絶望など最初から感じなければ良いではないか。そう考えるかもしれないが、そうなのか? なぜ絶望なんてものを、僕らは持っているんだ? 逆じゃないのか? より良くなるための、なにかじゃないのか? そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。だが、そうじゃないかもしれないが、だったら僕がその定義を書き直し、僕のよりよくなるために使うことができるのではないか?
よろしい、ならば僕は大罪を使役しよう。すべてから嫌われるマイナスを従え、罪も罰も僕のために在れ。僕から生まれるそのエネルギーを僕のために使え。僕を幸福へ押し上げるんだ。そのために在れ。