ひとのせいにしない

いろいろやりたいことがあったのに、今日は雨がふっていた。ツイてない日というものはある。そんな雨空を見ながらふと思いついた。
「原因と結果」というものがあって、それは「常に物理的なものである」と考えている。そこに人間の意志は介入しない。たとえば「雨が降っているから、買い物は明日にしよう」というのは、「原因と結果」の中には入らない。単なる言い訳だ。その程度の意志だった、という意志の弱さだ。意志が弱い、と書くと、強くあらねば、と思う人がいるかもしれないが、別に強くある必要はない。望んだことを望んだようにやっているのだ、という意識だ。雨が降っているのは、ただの現象だ。雨だから買い物を止めているのは、自分の意志だ。そこまで強く買い物がしたかったわけじゃあないのだな、と思う。逆に「雨が降っててツイてねぇなぁ、買い物行きたかったのにさぁ」なんてのは間違いだ。雨が降っていたって、買い物にはいける。
「理由に意志が負けている」ことを自覚することだ。
さて、このように何かのせいにして言い訳をする手法は、非常によくとられる。ただレベルを感じることはある。たとえば「まわりの連中は俺のすごさを理解してない」とか「大人はわかってくれない」とかが、低レベルな言い訳で、自分以外は誰も騙せない。
高レベルになると「多くの人を説得できる言い訳」になる。「正義のため」だとか「愛する人はただひとり」とかだ。多くの人がよく聞くだろう。しかしこれもまた、「原因と結果」には無関係だ。文化に即したただの言い訳であり、そんなものは物理現象には関係がない。
さらにレベルが高くなると、自己弁護、自己弁論にしかならなくなり、だれもついてこなくても良いから自分ひとりだけのために行動できるようになるだろう。「他者のためではなく、自分の気分がよいから他人を助ける」とかだ。電車で席を譲るときに「自分の気分が悪いから目の前のヤツに譲る」という意識で譲っている。
だが、その先に、やがて言い訳を超えた「ひとのせいにしない」部分があるように思える。たとえば「ひとのせいにする」の「ひと」とは誰を指しているのだろうか。普通は「他人」を指し「自分」は指さないことが多いだろう。そうではなく、自分も含めて「ひと」だと考える。「ひとのせいにするな」と言ったとき、他人のせいだではなく、自分のせいにもしない思考は可能だろうか。
「他人のせいにする」のと「自分のせいにする」のを同列に考えると、「自分のためにやった」といういいわけさえ、結局なにか人間のためにする行動であり、それに責任を押し付けている。「自分」に責任を押し付ける言い訳をしている。何か問題があったときに、自分を責める人がいる。それは他人に責任を押し付けているのと同じように、「自分」に責任を押し付けているだけだ。
さて、このようにして、他人にも自分にも責任を押し付けない手法は可能なのだろうか。これを越えることは可能なのだろうか? この場合、責任はどこにも行方がなくなる。他人のせいでもなく、自分のせいでもなく、仕方が無かったという諦めでもない。その先だ。理由に頼らない。運が悪かったのでもなく、相手が悪いのでもなく、自分が悪いのでもない。なにかのせいではない。ひとのせいにしない。その先だ。
そんなものがあるのだろうか。「ひとのせいにしない」ことは可能なのだろうか。