『発想の勝利』における『努力』って何?

優れた発想があり、それに感嘆することがある。それとそれを組み合わせるかヤラレター! と思うものがある。まあ、いろんなところで、見ることができるだろう。で、ふと思ったんだけど、それを「発想の勝利」って単語で片付けてしまうときがある。なんかそれって、別に努力しませんでした、という部分を感じてしまうのは、僕だけなのか? 単純に僕の思考が卑屈だから?
優れた発想をするのは、世の中にいる人間、全員がしている、と僕は考えている。
ただ、大半の人間は、それを表現しようとしなかった。そして表現者は、それを表現した。その差だ。つまり「努力したかしないか」だ。僕の考える『努力』とは、そこだ。
発想するだけ、妄想するだけではダメなのだ。表現し、見える形状にしなければ、どんなに優れた発想も、他人に見せることができない。他人から理解を得ることができない。発想の勝利するために、発想を見える形状にする努力をしなければならない。
すげぇ発想なんて、みんなしてる。満員電車に乗ってみろ。どれだけの頭脳が乗ってると思う? 一体にひとつ、脳みそを搭載してるんだぞ。誰も表現していないだけだ。表現の仕方を知らないだけだ。みんな面白いこと考えてるんだろ。だから見せて欲しい。
伝わらないなら、努力が足らない。他人にわからせよう、という努力だ。

                • -

今日の買い物
聖おにいさん(3) 新キャラで補強
WARKING(6) 新キャラで補強
ヘルシング(10) 人間は魂の 心の 意思の生き物だ
あねとむち …惜しい。何かが惜しい。だがそれがわからん。