本を『読』みたいのか? それとも『知』りたいのか?

本を読むってなんだろう…って話なんですけど。
速読って技術があって、それを使うと本をすごいスピードで読めます、って技なんですけど、なんだろうなぁ…前から思っていたけど、違和感が大きいものに触れたので書いておく。
ある有能な男がいて、その男と話になった。その男は、映画やスポーツや小説、いろんな物事に精通している男だった。そいつは、本は速読してすごいスピードで消費することができるが、アニメや映画なんかの映像関係は、時間圧縮できなくて不便だ、という。たしかに僕はそれが面倒で、動画や音楽というものをほとんど切り捨ててしまった。
しかしこの男は仕事人間であるため、それらの娯楽が、ただの引き出しに過ぎない、という男でもあった。その男にとって、それらの娯楽は営業のツールでしかないのだ。その男本人には娯楽というものがない。
その男ってさぁ…本の内容をよく『知』ってはいるけれど、『読』んでるって言うのか? そりゃ自由だ。個人の自由。眺めるだけでもいいし、感想を言う必要もない。速読だっていいし、読んだ内容なんて片っ端から忘れてもいい。翻訳モノは原文で読まなければ読んだとは言わない、という人だっている。何をもって『読んだ』と定義するのかは個人の自由だ。
だから僕の定義で言うと、その男は本の内容を知ってはいるが、読んでいない。
非難しているわけではない。そもそも、本なんて読む必要はぜんぜんない。楽しめないなら、やらなくて良い。娯楽なんてその程度だ。