その理由で納得できるの?

理由というものについて、考えることが多い。マスコミの文章を見て「そんな文章で納得しちゃうの?」と思うことがほとんどだ。バラエティ情報番組の統計でサンプルの五人中三人が痩せました、というだけで「痩せる」と断定するとか。漢字を読み間違えているから総選挙だ、とか。細木も江原も同様の印象がある。そんなので多くの人の納得が得られるわけ? …そうです、得られるのです。だから彼らの本は売れているし、信者もつく。彼らの理由は正しい、ということの証明だ。理由がある理由は二つある。一つは理由は他人の説得のため、もう一つは自己の理由を防衛するためだ。多くの人の同意を得るために理由はある。
理由だ。多くの人を説得するのは、ただの理由に過ぎない。本質はもっと別なところにある。だが、本質など見せることはできない。だから理由というものにして見せるしかない。理由と言うものしか、人は見せることができない。
僕は酒が飲めない。酒を飲まない理由をアルコールアレルギーだから、という理由付けをした。そうすると多くの人は僕に酒をすすめなくなった。ところがアレルギーという概念が理解できない体育会系の老人には、この言い訳は通じなかった。「俺の酒が飲めないのか」と言われた。不思議だ。なぜ同じ理由で説得できる人と、できない人がでてくるのだろう? 「他人が納得する理由」の理由はどこにある? ブログを毎日書く理由や、ライフハックの箇条書き、恋愛成功術、非モテとはなにかの定義、どれもただの『理由』だ。
やがて多くの人が『理由』を求めるようになってしまった。最初に欲しがっていた、もっと単純で原始的だった『本質』は、いったいどこへ喪失してしまったのか。