僕のもっとも信じていない人物、僕がもっとも信じている人物

もうだめだ。もうだめだ。もうだめだ。
僕は頭を抱え込んだ。僕はときどき、嵐の中にいる。その容赦のない暴風雨の前に、僕はどうしようもなく身を硬くするしかすべがない。それは自己嫌悪という嵐だ。その嵐の中で、僕はどうすることもできない。その暴力を生み出しているのは僕であり、僕は僕自身に隠し事の一切などできないのだ。その暴風雨は僕の嫌なところを嫌になるほど見せてくる。自分の汚いところを、目を覆いたくなるような残酷なところを目の前に突きつけてくる。
僕なんぞが、生きていてなんの意味があるのか。僕のような人間がいるせいで、すべてを傷つけ壊していくだけではないか。生きているのも嫌になる。自分という存在が許せない。僕がすべてをダメにしてしまったのだ。何一つ成すこともできない。大切にしたいものはたった一つだけなのに、それさえも大切にできなかった。傷つけることしかできないのか。僕は自己嫌悪という名の嵐の中にいる。なぜそれが起こるのかといえば、僕が無能で無力で非人間で配慮が足らず絶望的に人間失格であるからに他ならない。僕という存在は、とても迷惑な存在だ。思いつく限りの嫌なことを煮詰めて僕は精製されている。すべての人々から呆れられ、見捨てられてもおかしくない、そもそもなぜ僕自身が僕を見捨てないのか、不思議でならないほど、とにかく最悪という文字を体言した人間なのだ。いつか、僕自身が僕を見捨てる日がくるだろう。これは悲観的な感想ではなく、現実的な予測である。それほど僕は僕に失望している。僕がこの世でもっとも信じていない人物は、この僕だ。
それなのに、なぜか、そんな僕を、認めてくれる人がいる。僕を信じてくれる人がいる。理由はわからないが、そう言ってくれる人たちがいる。そんなか細い命綱が、僕をこの世にとどめている。僕が死んでいない理由は、そんな程度の弱弱しい糸が身体にくっついているからだ。
僕が助けられているから、というわけじゃあないけれど、その人たちは、すばらしい優しさがあって、信念や思想や道徳や考察や思慮配慮があり、僕にはないものをいっぱい持っていた。僕には理解できないが、僕なんぞに良いところがあると、そのすばらしい人たちが言っている。僕のもっとも信じている人が、そう言っている。僕がもっとも信じていない人間を、彼らは信じると言っている。
だとしたら、
僕の信じる彼らが、僕を信じるというのなら、
僕はまだ僕を見捨てるわけにはいかない。僕は誰よりも僕を信じていない。だが誰よりもあなたを信じている。そのあなたが、僕を信じると言っている。これは相反しない思想だ。
そして僕と同様に、尊敬に値するその相手がもし、自分のことが信じられないという自己嫌悪の嵐の中にいるのなら、僕はその相手にいわなくてはならない。
自分が信じられなくてもいい。僕を信じろ。あなたを信じる僕を信じろ。あなたの尊敬するこの僕が、あなたを信じている。
言えるはずだ。それは相手に甘えるだけではない、相手を甘やかすわけではない。相手に厳しくあるわけでもなく、相手に冷たいわけでもない。人を尊敬するということは、人から尊敬されるということは、そういうことだ。どうか尊敬できる人から、尊敬される人間に成りたい。