認識している文章

電車に乗っていると、隣に幼女が座った。まだ小学校前のようだ。その向こう側に母親が座っている。幼女はカバンからスケッチブックを取り出した。「おえかきおえかきー」と声に出している。母親は「小さな声でね。隣の人にぶつからないようにしなさい」とやさしく告げた。
しばらく幼女は何かを描いていて、不意に母親に話しかけた。「おかあさん、きょうってどういう字?」僕はその幼女への説明を考えた。「今日ってどういう字?」という問いに対して、どういう答えがあるだろうか。まさか人冠にカタカナのラ、とは言うまい。昨日今日明日における現在のことよ、とも言うまい(それは字の形状ではなく、今日という概念の話だ)さてどうやって教えるのだろう?
そんなことを考えていると、母親が「『き』に小さい『よ』に『う』よ」と教えた。そっちかい! …良く考えれば、当たり前か。幼稚園児が漢字を書くわけがない。幼女は「『お』じゃなくて、『う』? 『う』は大きい『う』?」と聞いた。母親は「大きい『う』」と教えた。
言われれば、音声と文字列があっていないようにも思える。ふんいき(なぜか変換できない)に似ている。この幼女は、その誤差をどのように埋め合わせていくのだろうか。「そういうものだ」という諦めしか、埋めることはできないのだろうか。
また、この幼女の頭の中に浮かぶ文章は、すべてひらがななのだろうか。僕の頭の中はどうだろう。音声のような文字列のような、どちらかというとリズムのような感覚もある。
そんなことを考えながら、電車に揺られていた。