善意の在り処

電車で座っていると、僕の目の前に二人組の女の子が立った。僕の隣が空いている。目の前の二人組は、どちらが座るのか、話し合っているようだった。僕は「どうぞ」と言って相手の返事を待たずに席を立った。僕が立てば、二人は並んで座れる。相手が座ったかどうかは知らない。僕はそのまま扉のすぐ側まで歩き、外を眺めながめた。
そこで思うのは、善意というものの在り処だ。
僕に出来るのは席を譲ることではない。僕に出来るのは席を立つことだけだ。相手に譲ったなどという傲慢さが、そもそも間違いではないのか。そんな風に思うのだ。
相手が使うかどうかは、知ったことではない。知識も、金銭も、寡言も、愛も、善意も、すべてそうだ。僕は発信するしかなく、相手が受信できるかどうかは、わからない。受信できると良い、とは思っている。受信して欲しい、とも思っている。受け取れるように発信する、そういう努力も必要だろう。だが、それだけだ。僕にできるのは、結局のところ己のことだけである。
いくつかの駅が通り過ぎると、席を譲った子たちがこちらに向かって歩いてきた。二人の女の子は、僕に向かって「ありがとうございました」と言って下車した。結局彼女たちもまた、発信しただけに過ぎない。そして僕にはそれが言えない。少なくともこの部分に関しては、彼女たちのほうが優れているなぁ、と感じた。