最後の晩餐に何を望む?

最後の晩餐とは、キリストが処刑される前夜、使徒と共に摂った夕食のことだ。まあウィキペディアでも見れば詳しくわかる。そこでキリストは弟子に裏切られ、死ぬことを予言する。神の子であるキリストは、自分が死ぬとわかってもなお、ユダが自分を売ると知ってもなお、その晩餐を開いた。それが最後の晩餐である。レオナルドダヴィンチの絵画は世界遺産になっているし、朝目新聞のトップバナーでネタにもなっている有名なワンシーンだ。
さて、その「最後の晩餐」について。
「最後の晩餐」という単語を使う多くの問いの場合、大抵は食べたいものを問う。だが、キリストが最後の晩餐に望んだのは何かを、知る者は少ない。それは豪勢な料理だっただろうか。美味しくて珍しい食材、高級なレストランのフルコース、失われた母親の手料理、どれかだったのだろうか。
僕の考えは違う。
何が食べたいか、なんかに、どれほどの価値があるのだろう。そんなのは日々食べるものもロクにない動物的な発想ではないか。現在使われている「最後の晩餐」が食べ物のことを指しているのは、結局、言葉だけが、独り歩きしているように僕には感じられる。僕の定義する、最後の晩餐とは、そのとき食べるもの、食べたいもののことではない。キリストが望んだのは何を食べたいかではない。十二の使徒と共に食事をするということを望んだはずだ。
『あなたは、最後の晩餐を、誰と食べたいのか?』
そちらのほうが、ずっと素直で美しい回答を聞ける、と僕は考える。
靖臣君の台詞を貰おう。
「どんな暖かい食事も、暖かい食卓にはかなわないのだ」