運命的な出会いの正体は…

ちょっと前に飯屋でゴハンの量を注文したときに思ったが、日本語は微細な量を示す言葉が多いようだ。ゴハンをよそってもらうときの単語で、多め、少なめ、大盛り、一口、ちょっと、すこし、軽めに、まあよくもここまで細分化したものだ、というぐらいある。
ところで、同じように、心情を表す単語というものも、いくつかある。怒り、憤り、悲しみ、哀しみ、喜び、悦び、愛、恋、失望、希望、絶望、羨望、いろいろだ。よくもまあここまで細分化したものだ、というぐらいある。
心情の場合、いったい誰が、どうやって、それに名前をつけたのだろう。特に愛とか運命の概念は、いまだにひとそれぞれで違いが大きすぎるように思える。そういう数値化できないもの、表現化が難しい単語は、どうやって相手との同期をとるのだろう。同期をとってきたのだろう。
たとえば『雨が降るのは、僕が選んだからだ』と僕は考えているわけだが、多くの人は理解できないようだ。『雨が降るのは、運命がそうだったからだ』だったら理解できるようだ。運命は僕が決定しているのだから、やはり僕が雨を選んだことになるではないか。この理解を得るのがなかなか難しい。突然すばらしい異性に出会うことを『運命的な出会いだ』と表現する人間がいる。だが僕は、それは『運命的な出会い』を『自分が選んだ』のだと考える。たぶん、多くの人の使う運命と、僕の使う運命の単語に誤差があるのだ。
細分化されてしまった単語の同期をとれるほどの文章力が、僕にはまだない。だが、いつか伝えられるように、努力するとしよう。

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今日の買い物
聖☆おにいさん(1、2) 一日幸福でいたいのなら、漫画を2冊買いなさい。って、トコかな。