空間の空気認識

朝の通勤電車。恐ろしいほど静かで、電車の稼動する音しかしない。携帯電話は全員マナーモードで、ときどき、安っぽい貧乏人のイヤフォンから聞こえる音漏れさえも耳障りなほどだ。
そんな中に、二人組みの女性が入ってきた。
そう、もう春で新年度の季節なのだ。きっと新しく入ってくる学生なのだろう、楽しそうにおしゃべりをしている。電車の中に響く甲高い笑い声。やがて片方の携帯電話が鳴り響き、なんの躊躇もなく通話をはじめた。片方は嗜めることもなく、自分の携帯電話でメールチェックを始める。
すると、学生たちの隣に座っていたスーツの男が、それを嗜めた。
学生たちはきょとんとした表情をしてから大笑いしだした。二人はひとしきり笑ったあと、キモイだのKYだの空気読めという嘲笑を男に浴びせ、電車を降りた。電車の中はふたたび静寂に包まれた。
さて、
あの女学生二人の間には、楽しい空気があったのだろう。しかし、電車の中には、静寂の空気があったはずだ。両者は認識された空間の差でしかない。電車内の空気が読めていないのは、その学生二人だ、と言うのは簡単だ。しかし、彼女たちは、自分たちだけの間にある空気が読めていて、自分たちの間にある楽しい空気が読めないのは、注意をした男性のほうだ、と信じている。どちらが悪い、という話ではない。どうして男は、どうしてその女性たちは、その空間の単位で、空気を切り取ったのだろうか。
世の中で空気を読め、という人間は、いったいどの空間を切り取ったのだろう? 人間の認識の範囲はどこにある? 常識がなにか、という問いと同じで、どの範囲で切り取るのか、に依存する。