「○○してあげる」という、押し付けがましい意識が生まれる理由

「○○してあげる」というときの二面性を考えている。
「○○してあげる」という意識を持つとき、人は見返りを求めていることがある。だから、○○してあげたのに、という意識が生まれる。たとえば、忠告してあげたのに、手伝ってあげたのに、助けてあげたのに、と言う単語の全ては、見返りの要求である。
「○○してあげる」という表現がされる意識は、本来見返りなど不要の、美意識だったはずだ。ところが「情けは人のためならず」なんて下品な単語に侵食されてしまった。イスラム教が本来目指したデザインは、この「○○してあげる」という美意識が、ちゃんと動く状態だったはずである。(少なくとも乞食が「喜捨させてやったんだから感謝しろ」などという思想ではなかったはずだ)ところがうまく動いていない、この恩着せがましいデザインは、着せたほうから見れば、恩知らずとなって見えるのだろう。日本人の言わずもがな思想とコンフリクトするためかもしれない。
○○するから△△を要求する、と言う場合、これは『善意』ではなく、対価を要求する『労働』である。結局のところ、善意と労働を混同しているのだ(もしくは、意図してすりかえているのかもしれないが)。
「僕から○○してもらった」ことがあるとしても、僕の中では「○○してあげた」という処理をしていない。僕が勝手にやることだ。相手も勝手にやるだろう。ただお互いがより良くなるであろう、と想像して「○○している」だけだ。伝わるかどうかは、受信側の意識に依存する。ただ、少なくとも、悪くしよう、陥れてやろう、という意識の人間は、滅多にいないものだ。それが損につながるということを理解しているからだろう。