感動はもっとできる

世の中は面白いことだけで構成されている。ただ人間はすべての面白さを知覚することができない。ゲーセンが楽しめる人もいるし、編み物が好きな人もいる。夏がダメだったり、セロリが好きだったりするように、王には王の、料理人には料理人の面白さがある。
自分が知覚できる面白さを探すことだ。テレビから流れてくる強要される面白さは、僕には「薄い」。それは僕の知覚能力の問題だ。白身魚のおいしさがわからない、味覚が死んでいるようなものだ。その面白さが上手に知覚できない。濃い味が好きなんだ。そういう好みの問題だから仕方がないし、多くの人はテレビで流れてくる薄味が理解できて、その味付けが好きだし、テレビは多くの人をターゲットにする薄味を作っている。需要と供給なのだから当然の味付けだが、ただそれだけだ。それなら僕は、自分でケーキでも焼いていたほうがわりと面白い。
趣味や、面白さや、感動とは、そんな与えられて喜ぶほど、薄っぺらくはない。感動する、とは、泣く、笑う、怒る、恐怖する、絶望する、ではない。感動とはそういった結果として表現が残ったものではない。
感動とはそんな程度ではない。感動は『もっと』できる。思わずつぶやくことがある。
「すばらしい」