自分はどこにいるのか?

ある事例を批判することがある。その場合、多くの人は、自分がその範囲外にある場合のみ叩いている。自分は範囲外だから叩ける、という認識をするらしい。ところが、僕のように、そんなのは関係なく、ブッ叩く人間がいる。自分がいるかいないかなんて些細な問題は関係ない。その事例が問題かどうかの話をしているのに、なぜ自分の立ち位置が関係あるのか。
「自分のことを棚にあげる」とは、「自分が範囲外である」という誤認をしている状態である。僕はよく言われる。しかしそれは勘違いだ。棚になんてあげてない。自分ごとブッ叩いているのだ。
なぜ自分がその範囲内にいると叩けないのか、と問いたい。自分が痛いからか。だったら他人だって叩かれているとき痛いはずだ。痛いかどうかは関係がない。僕がそこにいるかどうかも関係がない。
問題があることを問題があると指摘し、どうやったら改善できるか、どうして問題が起こったのかを考察すること。そこに自分はいない。客観のみが存在する。

客観とは、他人ごとのように話すことじゃあない。自分も含めて他人ごとのように考えることだ。自分が含まれる場合もある。含まれない場合もある。どちらでもよい。批判する事例に自分が入っているかいないかなんて、批判とはなんの関係もない。

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書いた後に見つけた…まあ、別に特別なことじゃないってことか。
http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20070601/1180708829