個人とコミュニティ

最近の流行から遠ざかっている。
テレビを見ないし、新聞も読まないし、ニュースはお気に入りのブックマーカやニュースサイトが取り上げた面白記事しか読まない。ラジオもなく、自分の好きな小説や漫画やアニメを見て過ごす。
別にそれが偉いわけでもなく、仙人のようなわけでもなく、コミュニティに依存しないでも生きていけるようになった、裕福になった、というだけだ。情報格差が広がり、最新情報を常時消費することだけが優先ではなくなってきた。多くの人が好きなことを、自分で選んで消費できるようになってきた。これからどんどんそうなっていくだろう。
いままでの世界は「コミュニティ」がまずあり、そこに「個人」が存在した。コミュニティのために個人が死ぬこともあっただろう。村八分というのがその象徴で、村(コミュニティ)がまずあり、その次に個人がある形状をしている。コミュニティとは、そういった集団のことであり、家族、学級、学校、部署、会社、地域、国家など、さまざまな大きさで形成され、その中に「個人」というものがあった。
それぞれのコミュニティの大きさに合わせて「常識」と呼ばれる共通認識を持たせられた。テレビを見て話題についていく理由は、ここにある。テレビとは、コミュニティにおける共通認識のためのツールの一つである。テレビを見ないと話題についていけない、この番組をみないとコミュニティの共通意識が得られない、このタレントのことを知らないなんて常識がない、そういったコミュニティに依存した意識によって、多くの人がテレビを見ていたと考えられる。
しかし裕福な世界では、まず「個人」があり、そこに「コミュニティ」という属性が付属する形状になるだろう。その場合、コミュニティに個人の意識が依存するのではなく、まず個人の意識がある。テレビを見ないし、新聞も読まないし、ニュースはブックマーカやニュースサイトが取り上げた面白記事しか読まない人間も存在できるようになるだろう。コミュニティには依存しない、まず「個人」がある世界だ。

もっとも、そんなふうに多くの人がなる時代は、まだ先だろう。みんなが同じことをするのは、コミュニティが強く、個人が弱いからだ。コミュニティのために特異なことをする子供だっている。注目されるからと信じて、成人式にバカ騒ぎする、他人に知識をひけらかす、中二病などがよく見られる。