表現する才能

満員電車から降りると、改札へ向かう階段には黒山の人だかり。多くの人がこの階段をのぼり、多くの人がおりてくる。蟻のようだ。「この全員の人間に、脳みそが入っているんだろうな」そんなことを想像する。そんなことを妄想する。
この一つ一つの脳みそが、それなりに面白いことを考えているはずだ。僕のようなたかだか一個の脳みそでも、それなりに面白いことを考えている。これだけの脳みそがあって、なんで社会はこんな程度なのだろう。混雑する階段に群がっている人を見て、そんなことを想像する。そんなことを妄想する。
思うに、世の中のほとんどの人間がそれぞれに悟りを開き、何かを信じ、自分の人生は幸福であり、誰かを愛し、大切なものを持ち、守るべきものが存在している。そんな夢を見ているのだろう。この脳みそ一個一個がそう考えているのだ。
では、その多くの人々と「天才」は、何が違うんだろう。おそらく、違いがあるのだとすれば、それは「表現したか」というだけだ。多くの人は、天才的に面白いことを考えている。ただ、表現しなかった。天才は表現した。その違いだ。
面白いことを多くの人が思いついていて、気づいていて、考え付いていて、発見していて、発展させているくせに、表現せずに独り占めにしている。それはそれで楽しいかもしれない。ただ、その面白さを、表現して、みんなに分け与えてほしいものだ。その小さな粒が、ほかの天才を育てるかもしれない。