がんばった自分へ、という言い訳

「がんばった」とは他人に対して使う言葉だ。「癒し系」が日本語としておかしいのと同様、自分で自分にがんばったと言いたい、というのは、日本語として不適切である。また「褒美」とか「褒める」とか「ご苦労様」いうものも同様だが、それは目下の人間に対して使う言葉だ。つまりどれも、「自分」に使う言葉ではない、ということ。
ところが、これを自分に使っている人間がかなり多い。使い方も間違えているが、それより感じるのは「納得すること」に「理由を求める」人間が多いのだろうということだ。「自分はがんばったから」という理由で「納得」したいのだ。「自分にご褒美をあげてもいいじゃない」という理由付けをして、無駄遣いじゃないと信じたいのだ。納得は自分の中だけにある基準である。
誰一人として賛同者はなく、誰一人として同意を得られず、誰一人残らずその意思を否定したとしても、自分だけが「納得」できればそれで良いのだ。それができないから「努力した自分に」という意味のわからない言い訳を探している。そういった言葉に頼れば自分が「納得」できるんだろうか。納得はすべてを優先するぜ。
もちろん、それは、そいつがそういう理由で「納得」しているに過ぎないし、僕がそういう理由で「納得」しているに過ぎないが。