善意というものの存在

どうにも他人の善意というものを、気づくと踏んでいるときがあって、これがどうにも、後にならないと気がつかないほど、自分は気配りの出来ない人間なのだなぁ、と思うことがある。ある時、小学生ぐらいのときか、電車で老人に席を譲ると、老人はありがとうと言って、飴を差し出した。自分は別に好きな飴ではなかったので、いりませんと答えた。老人は一瞬だけ悲しそうな顔をした。
老人に席を譲るとき「よかったらどうぞ」と立ち上がったが、このときの自分の善意だって押し付けがましいかもしれない。飴をあげようという老人の善意も押し付けがましいかもしれない。そういった、自分には不要なのになぁ、というものでさえ、善意というものは、自分にものを押し付けてくる。しかし、そういった事柄、自分に不要と思えてる物事であろうと、相手の善意を汲んで、「ありがとう」と受け取ることもまた、こちらの押し付けがましい善意かもしれない。
わりと同じようなことをいろいろなところで見かける。僕はいらないものはいらないと言ってしまうので、よく踏んでいることがある。そして後にならないと気がつかない。