ボランティアに関する考察

ボランティア活動というものがある。世界がもし100人の村だったら、という本を読めばわかるだろう(あれは、わりとまともな統計本だ)毎日何万人もの人間が飢餓や病気でハエのように死んでいく。どういうわけだか、先進国の人間は、何十年前はそういう状況にいたくせに、すぐにそのことを忘れてしまう。地球とは、自然とは、そういう世界なのだ、という認識が足らない。そしてその厳しい後進国の人たちの何人かに一人は、先進国のほんのちょっとした支援で生き残れる。1000円程度の出資で数日間生き残れる。
だから、みんなボランティアでお金を払おう!
というのが、日本の発想みたいだが、まあ、もちろん個人の自由だろう。そして僕がその一切に同意できないもの自由だ。だから僕からみた側面を書いてみよう。まずその小銭目当てで、子供が先進国洗脳を受ける。字が書ける子供は、先進国の老人どもと文通を仕事にして、金銭を得る。先進国の言語を覚え、それを仕事にして家族を養う。そして先進国の老人どもは「がんばってね〜」と悪意の一つもない。善意ですべて行っている。そうやってどんどん後進国の文化を侵略していることに気づかない。善意なんてものがあるから、良心なんてものがあるから、いつまでたってもそんなところにいる。彼らは彼らで勝手に生きて、僕らは僕らで勝手に死んでいくべき自然の中にいるのに、世界中の人間を救いたいみたいな正義があるから、いつまでたっても戦争はなくならない。
じゃあ見捨てるしかないのか?そう、見捨てるのが自然としては正しい姿だ。しかし人間としては足らん。人間はいつだって勘違いして、善意も悪意も区別のつかないくだらない存在だからな。他人に多少のお恵みを与えることで、与えた人間は気分がよく、与えられた人間は数日生き残れるなら(きっと見えない建物の影でやっぱりハエのように死んでいくのだろうけれど)多少は出してもいいか、程度の存在だ。そしてそれをするのは、今のところボランティアしかない。
しかし、ボランティアで後進国に行って、食べ物をあげるからヤラせて、とか、労働を肩代わりしろ、ということは、ごく当然に起こるだろうね。そして死んでいく。それが自然だから。(このシステムはミクロで見ても、マクロで見ても、存在する。日本にも存在する。)