リアルとネットの区別について

リアルとネットは違う、っていう視点の高さは、僕には中途半端に見える。
「自分の人格がどういう形状で顕著に出ているのか?」というのを気にしているのだろうか?
ネットとリアルを区別するのはなぜ? 僕はリアルの中でさえ分断されているし、ネットの中でも分断されている。対応する人間ごとに分断されているし、相手にする人間の組み合わせで、また現れる僕の人格は違うだろう。
たとえば、会社、自分のブログ、mixi、家族の前、友人、全部人格が違う。会社じゃないと出てこない人格もいれば、いつでも誰でも発現している人格もいる。複数の人格が立ち上がっているなんて当たり前だ。僕が多重人格構造だからか? 親の前にいるのと、友人の前でいるので、同じ人格なのって、破綻しないか? 友人と会社とが同じ人格で、オタ話するのか? じゃあネットとリアルが分断しているんじゃあなくて、リアルだけでも分断しているじゃあないか。
「区別すること」が重要なのではなく「何を持って区別しているか」に依存する。「ネットは虚像だ」という人間は「実際に会った人間だけが真実だ」と定義したのだろう。個人の自由である。僕はそう定義しないだけだ。

参考文献:上の文章の参考にはなっていませんが。
ネットとリアルの関係(304 Not Modified)
http://maname.txt-nifty.com/blog/2007/10/net_real.html
やがてリアルと融合するであろうネット(北の大地から送る物欲日記)
http://d.hatena.ne.jp/hejihogu/20071027/p2

社会のデザイン

なんで平日昼間しかやってない八百屋が存在できるのか? 市役所とかもそうですけど。平日昼間しかやってないっておかしくないか? 誰が使えるんだ? ニートか? ニート以外誰も使えないじゃん!
社会のデザインというものを考えてみる。
たぶん、結婚して、女性が専業主婦になり、男性が会社で働く。だから平日昼間に動ける主婦が、平日昼間にやっている八百屋や、市役所を利用できる。逆に行くと、結婚していない人間は、非常に不便な思いをするか、社会生活ができないということになる。時々、結婚を勧める上司というものは、そういう社会のデザインしか知らないのだろう。古いし、貧しい。
家にいながらに仕事がしたい、と多くの人が思っていて、通勤時間が無駄だと考えていて、それなのに、会社に通っている。これもデザインが古いし、発想が貧しい。
もっと自由な設計ができるはずだ。
そして、現代は、そうなってきた。24時間サービスが受けられる社会だ。もっともっと便利になっていくはずだ。現に核家族化していった。共働きをしてもサービスが受けられるようになった。これが社会の裕福じゃなくてなんだというのか。

ドール

球体関節人形というジャンルのアートがある。僕はスーパードルフィーで知ったんですが、こういうジャンルって、まだまだマイナーなんだろうなぁ。テレビを見るとか、漫画を読むとかよりも、ずっとマイナーな気がする。僕がそのジャンルをちゃんと見ていないからか?
男の一人暮らしの部屋にドールがいたら、けっこう怖い。(それは男女差別だろ。女性の部屋にあったってあんなの怖い)
売っている値段を見ると、趣味には手ごろなお値段だった。オタな店なのに、周囲は女の子ばかりが通りがかる。ま、僕はそういうATフィールドが効かないので居座るけど。
見ていると、その、眼球に見覚えがある。あの眼球って、フクロウと同じ眼球だ。逆か、フクロウに真似て作ったのか。立体的な球体がむき出しで、陶器のような白目から、吸い込まれるような瞳へと美しいグラデーションが続いている。
結構、いいかも。
(と、思って買ったら毎晩夜中に悪夢を見て、汗びっしょりのところを飛び起きると、あの視線)