欲しいのは自由か。それとも犬の首輪か。

自分が普通だと思ってはいない。しかし、普通がどこにあるのか、と考えることはある。
親戚や家族に、写真のデータを渡すことになった。4GBあり、SDカードにいれて渡せば見られるだろう、と想像して渡した。普段からパソコンを使う弟と妹だけは見られた。
しかし他は誰も見られなかった。毎日パソコンを使う仕事をしている父親でさえ、見られなかった。他人は、デジカメにしか入れられず、見られないといわれた。母親についてはSDカードスロットのついたPCを持っているにもかかわらず、入らないといわれた。聞いてみると、デジカメのデータを交換するなんてやったことがない、といわれた。

この断裂について、「そういう人たちとは距離を置く」という対応をとってきた。そうやって僕の友人はろ過されており、それができないような友人は存在していない。環境を整えたといえば聞こえがよく、新しい風の入らない朽ちるデザインだ、と言えば正しい表現だというだろう。
この差はどこから生まれるのだろう?
多様化、というものは、多くのことを自分で選択できるようになった状態だ。自由な状態だ。しかし多くの人は、自由なんて欲しいのか? 彼らが犬の首輪じゃないのか。