情報に金を払うという意識

ちょっと欲しいアプリがあって、そいつが3000円だった。
3000円のシャツなら「わりと安いな…」って思いながら買えるのに、iphoneアプリだと考えると、この敷居の高さはなんなのだろう。150円のペットボトルのお茶より、115円のアプリのほうが躊躇するのはなぜなのだろう。
そんなことを考えていたら、他人から指摘を受けた。それは情報に金を払い慣れていないからだ、ということだった。
僕はサービスに対して、わりと金を払う。サービスは値段なりのものだと考えている。値段がイイホテルに泊って高い金を要求されるのを当然で、それだけの人材を集めているし、各国後に対応できるし、コンシェルジュは物知りで丁寧だし。実際、安いホテルと高いホテル、両方とも泊ると、値段なりだなぁ、と感じてしまう。
きっと昔はそうじゃなかったのだろう。サービスに金を払う、という認識ができるようになったのは、近代だと思う。今でもこの「サービスに金を払う」という概念が理解できていない人は多い。吉野家で客が神のように振る舞うのを見ていればわかるだろう。
話を戻して。
現代は、サービスに金を払う時代になった。
そしてこれからは、情報に金を払う時代になるだろう。
電子書籍のように、手元に残らないものに金を払うのを躊躇する。音楽のダウンロード販売もそうだ。iphoneのアプリについてもそうだ。少しずつ、情報にお金を払う、という形状が浸透していく。もしかしたらこの、情報にお金を払う、という文化が日本に根付いてきているのは、ガラケーやネットゲーのおかげかもしれない。
ネットワーク上のアイテムを有料で買う、という現象は、情報に金を払う、という状態である。