説明したがるオタクと、説明したがらないオタク

道を歩いていると、美しい盆栽の並ぶ家があった。立派な盆栽が、ところ狭しと並べられている。どれも手入れが行き届いていて、木々の新芽が美しい。挿し木がしてあって、新しく増やしている様子だった。
老人が一人、剪定をしていた。ケヤキだ。大きさは20センチほどで片手で器ごと持ち上げられる。しかし枝の密度から考えると、おそらく10年モノか、それ以上だ。
僕が眺めていると、老人が話しかけてきた。盆栽の話になった。ケヤキの剪定にしては、時期が早くないですか? いやそんなことはない。枝を増やすならこの時期から手を入れてやったほうがいい。ほら、新芽、わかるかい、ここの先端を切るんだ。こんな角度で。そうすると、残ったこちらの葉が伸びて枝になる。
1時間ほど老人はしゃべっていた。
やがて、家の中から若い男が現れ老人に呼びかけた。「おじいちゃん、ちょっといい?」僕は老人に挨拶をし、その場を立ち去った。若い男は僕を怪訝な表情で見ていた。当然だと思う。それぐらいの警戒心は持っておくべきだ。
僕が盆栽をいじっていて、見知らぬ他人から話しかけられたら、おそらく老人のように盆栽の説明はしないだろう。
この差はなんだったのだろうか。
趣味においても同様の感覚を受けるときがある。自分の趣味を説明したがる人がいる。たぶん相手の理解が得たい、という気持ちなのだろうけれど。説明したがらない僕は「理解は無理だ」と考えているのだろうか。諦め、というよりは、知りたかったら興味を持って自分で調べるしかない、と考えているからか。自分はこれが美しいと思う、というものは示すが、なぜ美しいと思うのかは、僕自身もよくわからない。説明はできない。