道具によって飼い慣らされる

昔、ケータイでメールを打つとか、考えられなかった。なぜなら入力インタフェースとして遅すぎるから。予測変換が出るとは言え、よくこんなノロマなスピードでメールなんてやってられるなぁ、と考えていた。
ところが今では普通のことだ。
当時の僕は、パソコンのキーボードさえも入力インタフェースとして遅いと考えていた。思いついたことを片っ端から保存するにはどうしたらいいかを考えていた。風呂に入っている最中に思いついたことをテキストにできないかどうかを考えていた。すばらしいアイデアはすぐに揮発し、別のことを考えてしまう。それぐらいどんどんあふれていて、ぼろぼろと取りこぼしていった。
ところが今では普通のことだ。
忘れることや、失われることを恐れなくなった、とも言える。それで忘れる程度ものは、そもそもその程度のものだったのだ、と考えるようになったとも言える。それが老い、とも言える。
今ではケータイでメールを打つのも普通になってきた。遅いと感じることはあまりない。そうやって道具に飼い慣らされている。ケータイばかり使っている人たち、またケータイしか使わない人たちは、ケータイの処理速度に脳の処理速度をあわせている。そうやって飼い慣らされている。
本当はもっとすげぇ能力なのに。首輪をされ、くくりつけられた犬のようだ。彼が全力で走れる大地はもうない。ケージの中の鳥のようだ。空はあんなに高いのに。自分が飼い慣らされていることさえ、忘れている。