メタ思考のメタ視点

抽象的思考というかメタ視点というか。そういうものについて考える。自分がそうだと他人に言われて気づいたのはいつだったか。僕はわりとぼんやりしている人で「なんとなくそうじゃねぇの?」という世界に住んでいる。
どれぐらいぼんやり生きているかといえば、このあいだ「織田信長って本能寺で焼け死んだらしいけど、誰に殺されたんだっけ? 石田三成だっけ?」「明智光秀だろ。あと自刃だけどな」といわれるぐらいぼんやり生きている。生きているっていうか、単純に歴史がインストールされていないというか、あと話がズレてきたので戻す。
AとBという現象がある。たとえば、カップめんを食うAとか、電車を待つBとか。現象はなんでも良い。いくつもの現象があるはずだ。それが複数くっついて、人間は行動しているし、世界は動いている。あふれるその現象から、ちょっと気になる二つをチョイスする。そしてこのふたつの同じ項目と、違う項目を探す。たとえばさきほどのカップめんと、電車を待つについてだと、同じ項目「3分待つ」とか。違う項目「屋外と屋内」とか。
このように異なる現象AとBをくっつけるのが、メタ思考だ。
見ていて思ったのだが、メタ思考をしない人は、AとBの解像度がそもそも高すぎる。インプット時はそんなに高くなくてよい。あとから、解像度を高くし、それぞれの差異を見つければよい。イキナリ高いと「まったく違うもので関連項目はない」という結論になってしまう。現象について詳しすぎるのだ。
つまり、メタ思考、メタ視点の持ち方は「もっとぼんやり見ろ」となる。

しっかりせな…しっかり、しっかり…
「大阪!しっかりしろ!」
え、寝てへんで?