正しいからどうかしたのか

「自分の意見が正しい!」と思っているときは、後から考えるとたいてい間違っていて恥ずかしい。というか、自分の姿勢の稚拙さが恥ずかしい。意見って、正しいとか間違えているとか、そういうものじゃない。
自分の意見なんて正しくたって間違ってたっていいはずなのだ。人狼をやっていて、狼と村人のどっちになるかってだけの話で、どっちかに偏らせて意見を言い、勝とうと努力もしますが、本気でケンカしているわけじゃあない。
「あっちのほうが総合して得をしそうだな」と思うほうに自分の意見なんてぐにゃぐにゃにまげていく。その穴埋めのために、相手の穴をとことんつぶしていく。そして相手は、こちらの穴をとことんつぶしてくる。最後は「やっぱりキミの意見の方が強靭だから、僕はキミの意見に賛同するよ」というのだって、アリだ。
そうやって、両者の意見が補正され修正され、時には崩壊し、時には復旧し、自己意識が拡張される。これが議論の在り様だと僕は考えている。
正しいか間違えているかなんて、有限で微小だ。
でもまあ、そういうところに拘るのもわかる。「こだわり」ってそもそも、こういうマイナスの意味で使う単語だしね。