親を安心させることなどできない

まあ、親によるんでしょうけど。
ウチの親はとにかくすべてにおいて「ダメだ」という人間だった。どんなにがんばっている人間に対してても、そういう姿勢だった。あらゆるものの粗を探し、ダメなところを指摘する。そういう人間だった。幼い頃からその親を見てきたから、自分はそういう人間にはならない、と僕は決めた。
なぜ彼らがダメだダメだと言うのかといえば、彼らは心配性で保守的で、とても安全設計なのだ。弱者も大切にするし、こどもの教育方針もしっかりと考えた。彼らのすべての行動に悪意はなく、まったくの善意によってのみ行われていた。だから家族や友人を守ろうと必死になる。自分の手の届く人間を助けようと、必死になってしまっている。ダメだ、と言われるほうの無知が悪い。自分こそが正義だ、と彼らはそういう正義を持っていた。
だから彼らは、善意の人間なのだろう。
だから僕は、悪意の人間なのだろう。
もし他人が焼けた鉄に素手で触れようとすれば「やめたほうが良い」と僕は言う。だがそれでもなお触れるのはそいつの自由だ、と信じている。たとえ親だろうと、兄弟だろうと、友人だろうと、恩師だろうと、僕はそういう態度をとる。彼らがそれをするのは、彼らの自由なのだ。彼らの意志だ。それを侵害することを、僕は僕に許していない。僕はそれを食いしばって見るしかない。相手の判断を信じるしかない。
それが人間の自由意志だからだ。
僕の親は、僕が年俸一億になろうが、結婚して子供をもうけようが、ずっと僕の心配をし、アレがダメだコレがダメだといい続けるのだろう。永遠に僕の心配しつづける。そういう設計を彼らは自分で自分にしたのだ。
だとしたら、僕にできることはなんだろう?
彼らを心配させてやることしかない。安心して、心配しなさい。「親が心配することをする」んじゃあない。「何をやっても心配するんだから、自分がより良くなることをする」自分の自由意志で、自分を幸福にするように行動する。どんなに僕が良くなろうと、親は永遠に僕を心配し続ける。ただそれだけだ。僕にはいらない心配だが、彼らには必要な心配なのだろう。それが彼らの自由意志だ。僕は邪魔しない。