借りが返された

なんか数日前のことを、ふと今になって思い出した。僕と連れが話しながら電車に乗った。電車の席が一つだけ空いていた。僕はとても疲れていたので、席に座った。すると隣に座っていた女性が立ち上がり、僕の連れに席を譲ってくれた。僕らは二人並んで席にすわった。
僕は疲れていたので、すぐに眠ってしまった。そのことをさっぱり忘れていた。今、そのことを思い出した。ああ、そうか。「世界」から借りを返されたのか。まあ、わりと巡り巡って、そうなるもんだからなぁ…。僕はその女性の顔を覚えていない。ただ、そいつから借りを返された、というのだけはわかる。
ときどき、「世界」と「功徳」について考えることがあって、豊かな社会において、多くの人は「世界」に対して「功徳」を積みすぎなのではないか、と思うのだ。善行を行いすぎで、良い人になってしまう。だから、善行を行いすぎた人間のところに貢物やプレゼント、人やモノが集まりすぎてしまい、結局、その人間が消費しきれないほど肥大化してしまう。僕の両親はそういう親だった。家には老夫婦二人しかいないのに、功徳を積みすぎで、お歳暮なんかが食べきれないほど送られてきて、結局食べられず腐らせてしまうのだ。
「世界」はただ平坦な機構の名前であって、そいつそのものには善意や悪意はない。ただ自分の行動が、跳ね返ってくるとか、映し出されるだけのものだ。「功徳の積みすぎ」とは「世界」に対して「貸し」を作りすぎていることだ。
多少は貸しを作っておくぐらいが良いが、それがあまりに多いと、消費しきれないほどの善行が帰ってきすぎてしまう。これが功徳の積みすぎである。
さて、僕は「世界」に少量の貸しを作っていた。だがそれが返されてしまった。仕方がない。もうちょい功徳を積まないとな。僕はペイフォワードシステムを採用している。だから、あと三倍ほど返す予定だ。豊かさとは、そうやって人間が意思によって構築するものだと僕は考えている。