努力という資源、発想という資源

『発想の勝利』における『努力』って何?
これと似ているのかもしれないけど。
努力というものを、ただの資源として考えてみる。努力を、金銭と同じレベルの扱いをするのだ。100円、持っている。そんな感覚で、人は100努力できる。100円では足らないので1000円したい、と思うように、努力を増資することもできる。
努力する、とは手持ちの100円を使うことだ。他人に努力しろと言う場合は、身銭を切れ、という意味だ。このように努力を資源化すると、努力の価値が見えてくる。努力がいっぱいできる人は、そういう資源を持っている、ということだ。金持ちと同義だ。
さて、このように努力を資源化してから考える。発想の勝利とは、固定し形状化し表現するために、100努力を使った、ということだ。この場合、100努力も重要だが、まず発想があることが必要だ。
持っている100努力を何に使うのかが重要だと僕は考える。使わなきゃ、1%の発想は、誰にも伝わらない。問題は、100円持っていることではない。その金を何に使うかだ。1%の発想を固定し形状化し表現するために、100努力を使うのだ。
対して1%の発想のほうは、資源化できるのだろうか? 現段階では、できないように感じる。ひらめきは意図して生み出せないからだ。それとも、これは僕の浅慮であり、未来に僕の視野はもっと広がったとして、それが可能になるのだろうか。