姉の日ですよ!

僕は靴を履いて玄関を出る。
見上げると、冬の空は美しい青色で塗りつぶされていた。どこまでも突き抜けていくような、鮮やかな青が続いている。空は高く、雲はない。僕は冷たい空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
隣には姉がいた。怪訝そうな表情で僕を見ている。
「いきなりついてこい、って…どうしたの?」疑うような視線を僕に向けた。
「いいからいいから。ほら、行こう」
僕は姉の手をひいて、家を出た。彼女は冷たい手をしていた。
家の前の小道を抜け、大通りに出た。家の最寄の花屋を訪れる。いつも前を通り過ぎるだけで、入ったことはなかった。花屋の中には、巨大なガラス張りの保存庫が置かれ、中には名前も知らない花が置かれている。この寒さに耐えられるように、保温しているのだろう。夏は保冷しているはずだ。
僕は花屋に踏み込んだ。
姉は花屋の入り口で立ち止まって、眉を寄せていた。僕は振り返り、笑顔で手招きをすると、ようやく姉は花屋へと踏み込んだ。僕は笑いながら言った。
「どうしたのよ、花屋なんかで…」姉はなぜか不機嫌そうな表情だった。
「今日が何の日か、知ってる?」僕は笑顔で言う。
「え。今日?」
姉は頬に伸ばした人差し指を当て、首をかしげた。彼女が良く見せる、かわいらしいしぐさだった。本人には教えていない。僕はそれを誰に言うでもなく、こっそりと楽しむことにしているのだ。僕だけの宝物だった。
「なんだっけ? クリスマスにはチと早い?」
姉は僕のほうを見て言った。僕はため息混じりに答える。
「もう。毎年、お祝いしてるのに。覚えてないの?」
「え? なに? なんかの日なの?」
「もう。しょうがないなぁ」
店舗の奥から、店員らしきが出てきた。身長が二メートルはあろうかという大男だった。きっと先祖がキリンなのだろう。僕は花屋に小声で注文をした。花屋の店員は、姉をちらりと見た後、笑って奥へと消えていった。
姉はあいかわらず怪訝な表情をしていた。
「だからなんの日よ」
「今日は『姉の日』だよ」
僕が笑って言う。
彼女は驚いた表情に変わった。
今日は姉の日。一部の属性持ちの間では有名な日である。
やがて、奥から花束を抱えた店員が現れ、僕にそれを手渡した。鮮やかな色をした、彼女の好きな色合いを集めた花束だった。
「いつもありがとうね」僕はその花束を、姉の前へ差し出した。
「え? え? いや…嘘。やだ。ホントに?」姉は戸惑い気味に、花束を受け取った。
彼女の好きな花は季節柄入れることができなかったが、上品な色合いの花は、彼女の顔によく合った。
彼女は目を閉じた。涙が一筋、頬を伝った。顔は笑っていたのに、瞳からは涙が流れた。僕は優しく微笑み、頬を撫で、涙をぬぐった。彼女は受け取った花束を抱えた。彼女のほうから、ふわりとにおいがした。甘い。花のにおいだろうか。…違う。これは、嗅ぎなれたにおいだ。僕はその香りを知っている。
「ありがとう」
姉は言った。彼女を抱きしめたい衝動があったが、花束がつぶれるので保留することにする。そういうことはあとでやろう。
見つめ合う僕らの横から、咳払いが聞こえた。
花屋の店員がまだ、立っていた。僕らは顔を赤くし、磁石の同極のように身を離した。
「あの。花代を…」店員は言いづらそうに僕に言った。
「ああ、すいません」僕はジーンズに手を突っ込んだ。
そして、一秒もしない間に、背中に鳥肌が立った。あるべき箇所に、財布がない。あわてて、前のポケットに手を突っ込む。ない。コートのうちポケット、入れた記憶もなければ、実際はいっていることもない。シャツのポケットも見たが、何も入っていなかった。笑顔でいた姉と、困った表情の店員が、冷ややかな表情へと変化していく。
「ねえ、あんたまさか…」姉は半目で僕を見た。
「…ごめん。財布…忘れた…」
僕は蒼白な表情で彼女に注げた。周囲の時間は確実に停止しただろう。たぶん、スタンド攻撃だと思う。数秒だろうか。時が止まっているのに数秒と考えるのはおかしいが、とにかく数秒ほどだ。姉は呆れたため息とともに、自分のポケットから財布を取り出した。
「あんたらしいわ…」
「その、いや、ごめん…」
店員に金を払い、呆れた顔の彼女が、ふと笑って僕の手を握った。
僕は驚いて彼女を見る。
「しょうがないなぁ。ホントに」
「う。うん。いや、ホントにごめん」
「ありがとうね」
僕らは手をつないで帰った。そのことで、僕は延々とからかわれるのだが、それはまた別の幸福な話。
それはまた、別の作り話。